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読書メモ:若桑みどり著クアトロ・ラガッツィを読んで天正遣欧少年使節の運命の物語に感動

こんにちは。生涯挑戦!をモットーに新大人世代を応援する、こうちゃんです。

戦国時代、安土桃山から江戸の徳川の時代に入って、天下泰平と言われた時代の裏にはあまり知られてない想像を絶するキリシタンへの迫害があったことを知りました。

1637年の島原の乱のむごい弾圧があったことは史実として有名ですが、それより約40年も遡る秀吉の時代から始まっていました。

歴史の大きな流れに翻弄されて、死の拷問に耐えつつリスボンへの船旅の楽しかった記憶を思い出しながら息絶える中浦・ジュリアンのラストシーンの描写が心に深く残りました。

2018年7月に「長崎天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録されました。

キリスト教信者ではないのですが、世界遺産に登録されるまでにはどのような歴史的背景があったのだろうというところに興味がある方にはこの本はおすすめです。

■天正遣欧少年使節とは

安土桃山時代の1982年(天正10年)にヴァリニャーニにより九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団です。

その4名は、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノです。

目的は純粋に西洋文化を学び、日本に帰国してキリスト教の布教活動のためです。この本では信長がキリスト教の布教活動を擁護していて意気揚々と欧州に旅立った少年たちの様子と、帰国後の悲劇までが詳しく語られています。

■少年たちが見て学んだものとは

16世紀のイタリア、スペイン、ポルトガルを訪問し、ローマ教皇のサン・ピエトロでの即位式にも招待され貴重な経験をして、見聞を広めた学びを日本に持ち帰って広めようとしていました。

それについて、少年たちのコメントが興味深いです。

ミゲル:
すべての人は完全な権利の内に確保され、万民が平等の権利をもって生活し、めいめいに応分の権利がある。
ヨーロッパの富強の要因は、平和と静穏のなかに生きていることにあると思う。平和が繁栄の親とよばれているかは驚嘆スべきものがある。
日本においては全国を通じて絶え間ない戦争の災厄が浸潤しているので、容易に畑に種をまくことも、収穫をとりいれることもできず、いたるところ戦争の騒ぎがある。
つぎにヨーロッパの富強の原因は自然風土にある。
豊富な果実、麦、豆、小麦、米、家畜、野菜、毛、川、獣毛など豊かな三仏がある。
第三の原因は交通の便にある。日本は欠乏に耐えている。……
農夫は商人のように勤勉である。

クアトロラガッツィより引用

マンショの言葉からの引用です;

マンショ:
ヨーロッパの人々はたがいにほかの人間の習慣をよく習い、ほかの技術や発明を習得し、すこしも恥とは思っていない。ところが日本人はそれを恥じる。なにも外国人から取り入れようとしない。

クアトロラガッツィより引用

彼らは当時のスペインカトリックの総本山であるトレドにも立ち寄り、そのあとローマにあるバチカン市国でも歓待を受け、貴重な経験をしました。

バチカンのサン・ピエトロ寺院は2年前トレドは3ヶ月ほど前に訪問したばかりなので、親近感がわきます。

キリシタンの擁護者でもあった、信長が本能寺の変で命をおとすのが1582年の6月ですが、そのことを知らずに少年たちが日本を出発したのが1582年の1月です。
当時の船旅は危険極まりなかったようですが、奇跡的に1590年に日本に帰国することができました。

その時点では、秀吉がバテレン追放令を1587年に出し、キリシタン大名の大村純忠、大友宗麟もすでに死んでいた時でした。そこから苦難の道が彼らを待ち受けていました。

■少年たちとキリシタンの受難

著者はこのように述べています。

少年たちが見たもの、聴いたもの、望んだものを押し殺したのは当時の日本である。世界に扉を閉ざし、世界を見てきた彼らの目を暗黒の目隠しで閉ざしたのは当時の日本である。

そして、一般の歴史書には英雄として崇められている、秀吉、家康についてはこう記載されています。

世界に目を向けていた男信長の死によって決定的に変わった。
他人を征服するか、されるかの秀吉。
自分と自分の子孫の永久の世襲権力維持のために、世界に対してすべてを閉じ、すべてを固定させ、すべての国民を世界に対して盲目にさせて、巨大権力の一元的支配をつくりあげた恐るべき徳川に支配された。

また秀吉のなりふりかまわない美女刈りはすさまじく、
権力は絶大であり、国王や君候、貴族、平民の娘たちをなんら恥じることなくその親たちの涙を完全に無視した上で収奪した。

とあります。絶世の美女とうたわれていた細川ガラシャも秀吉に呼び出された際、懐に短刀をしのばせて危うく難を逃れたそうです。

「宗教で読む戦国時代」という神田千里氏の本では、キリシタン大名の乱暴狼藉の背後にイエズス会が黒幕となっているような表現がされています。

「クアトロ・ラガッツィ」では、帝国支配をもくろんでいたのはスペインとフランシスコ会の方で、イエズス会は宗教的な布教活動だったというニュアンスでした。

ポルトガル人商人が日本人を奴隷としたことはどちらにも事実として書かれています。イエズス会がそれは布教活動の妨げになるのでポルトガル王に訴え勅令がでたそうです。

秀吉が当初はクリスチャンを擁護していたのに、手のひらを返してバテレン追放令を出した理由について、イエズス会準管区長コエリョの失態と明言しています。

不用意にコエリョが秀吉の九州平定にキリシタン大名の動員や大砲/武器/弾薬の調達までヨーロッパから可能で協力すると言った一言が、猜疑心をあおってしまった

そこから、秀吉のキリシタンに対する迫害が始まり、特に1596のキリシタン弾圧、処刑前に片方の耳たぶを切り落とし引回すといった、残酷極まり無い様子が描写されています。

少年たちについても、千々石ミゲル以外はキリスト教から離れることはなく、悲惨な運命を辿ります。

著者の言葉を借りると、

それでも彼らは、自分たちの信ずることを貫いて生き、かつ死んだ。


人間の価値は社会において歴史において名前を残す「傑出した」人間になることではない。それぞれが自己の信念に生きることである。

ラストシーンの描写が心にのこりました。

ジュリアンは1633に小倉で捕まり長崎に送られ処刑された。江戸幕府が鎖国を命令した年であった。ジュリアンは拷問に5日間耐え暗黒の穴のなかで、一番幸せだったころのことを考えていた。
幸いなるかな 正義のために迫害される者 天の王国はその人のものである」リスボンへの船の上で3人の友と暗唱したマタイ伝の句である。一日中甲板で魚を釣っているので、メスキータ神父が「クアトロ・ラガッツィ! スー・アル・ラヴォーロ(4人の少年よ、さあ勉強だ)」と叫ぶのが聞こえた。ジュリアンの心の中で希望をのせて船は真っ青な海の波をかきわけ、四人を運んでいった。だれひとり欠けることなく、それは四人の少年のままだった。

■著者について

著者の若桑みどり氏について、Wikiより抜粋します。

東京藝術大学美術学部芸術学専攻科修了。イタリア政府給費留学生としてローマ大学に留学。東京藝術大学音楽学部教授を経て、1988年から千葉大学教養部、後に文学部史学科教授となる。2001年の退官後、千葉大学名誉教授。2001年から2007年まで川村学園女子大学教授。
2003年 紫綬褒章

2004年 天正遣欧少年使節を描いた『クアトロ・ラガッツィ』で大佛次郎賞

Wikiより引用

■終わりに

1837年に島原の乱が起き、生き残ったキリスト教徒たちが離島や山間部に潜んで潜伏キリシタンになりました。

開国直後の1865年、長崎の大浦天主堂のプティジャン神父の元へ訪ねてきた人々が、自分たちは信者だと告白しました。彼らが潜伏キリシタンでした。

その背景としてこのような悲惨な迫害の歴史があったことは知っておく必要があると感じました。
ご参考になれば幸いです。

こちらの記事に西本さんは隠れキリシタンの末裔であり、迫害を受けていた隠れキリシタンが江戸時代から伝承してきた、オラショという祈りの音楽の存在を知っていてバチカンのサン・ピエトロ寺院で演奏したことを知りとても感銘をうけました。

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